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北茨城郷土資料紹介

「生々流転」横山大観

司書 安部 憲夫

「生々流転」横山大観の画像

近代日本画の第一人者であり、北茨城とも関係の深い横山大観の最高傑作が、『生々流転』です。大観56歳の円熟期に、全精魂を込めて制作された作品です。

その絵巻の内容は、靄にかすむ山中に始まり、松と山桜、鹿の遊ぶ丘、そして大観得意の片ぼかしを極度に生かした、連山の山腹と続きます。絵巻の随所に見 られるこの片ぼかしこそ、菱田春草と共に五浦日本美術院にて追求された日本画革新運動、矇朧体の技法が生かされたものです。

小川は滝の水が合流して川幅を増し、断崖の下を流れていきます。途中に野猿が群れて遊ぶ姿、薪を背負って家路につく樵などの姿に、のどかな山の暮らしが 描かれています。松山に隠れた川は、筏師の乗る川とあわさり大河となり、やがて大橋の下を流れ、大海へと注ぎ込みます。浜辺では漁師たちが網をひき、遠く に荒海に削られる離れ島が見えてきます。大海には潮が流れ、波頭が立ち、荒れ狂う中を飛龍が天空へ昇り雲となります。これによって水の生々流転を描いた 40メートルに及ぶ壮大な画巻は、終りとなり最後を閉じるにあたっては、「大正癸亥八月大観作」「鉦鼓洞」の朱文方印が見られます。この作品は、昭和42 年6月15日、国の重要文化財に指定されました。
図書館では、限定版の『生々流転』原寸大豪華本を購入致しました。閲覧ご希望の方は、受け付けまでお申し込みください。

広報 図書館だより・創刊号(平成2年1月1日)より

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「雨情民謠百篇」野口雨情

司書 安部 憲夫

大正13年の野口雨情は、「證城寺の狸囃」「兎のダンス」などの童謡を発表するほか、「民謡と童謡の作りやう」などの評論集を刊行し、創作民謡、地方新 民謡の作詩活動にも専念しています。この年に『雨情民謡百篇』が刊行されました。それまでに発表している作品や未発表の民謡の中から、雨情が百篇を選んだ ものです。

この中には、中山晋平作曲として多くの人に愛唱されている「波浮の港」の作品も含まれています。のちに波浮の港には鵜の鳥もいないし、夕焼け小焼けもないとのことで、雨情も「実は故郷の近くの平潟港をモデルにした」と話された作品です。

また、原本を見ると「御神火暮し」ではなく「御陣家暮し」と書かれていることもわかります。装丁は小川芋銭によって描かれています。
郷土資料貴重本ですので、閲覧ご希望の方は、受け付けまでお申し込み下さい。

広報 図書館だより・第2号(平成3年1月1日)より

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「征露戦史」野口勝一 編集

司書 安部 憲夫

この本は、日本とロシアが戦った日露戦争を、旅順の降伏まで、第百章にわけて、明治38年7月に野口勝一が編集したものです。2ヶ月後に日露講和条約となるのですから、いかに時期を得ていたかがわかります。

野口家は、古くから水戸藩の郷士で、父・友太郎、叔父・西丸帯刀など、維新の活動家を輩出しました。そのため勝一は、「尊じょう思想」色濃くこの本にも強い影響がみられます。当時の社会状況の中において、どう日露戦争をとらえたかを知る資料としても貴重な1冊です。

勝一は、この年の11月、56歳の生涯を終えました。ほかの執筆、編集としては、『維新史料』『風俗画報』『絵画叢誌』などがあります。ガマの絵を好んで描き、和漢の学に長じ、衆議院議員としても活躍、横山大観などの文化人も後援しました。また、野口雨情は甥にあたり、現在『北茨城市史・別巻5』として 『野口勝一日記』が教育委員会から発行されています。

広報 図書館だより・第3号(平成4年3月10日)より

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「日本美術院百年史」日本美術院 編

司書 安部 憲夫

「日本美術院百年史」の画像

日本美術院は、岡倉天心を盟主として、橋本雅邦、横山大観、菱田春草らを中心に、日本画家、彫刻家、工芸家などが集まり、明治31年8月15日、東京谷中初音町に開院式を挙げました。

以来、在野派として美術界に活躍し、一時は北茨城市五浦に移り、日本画の革新運動を展開しました。その主催する展覧会を院展といい、平成10年は開院以来100年にあたるため、『美術院百年史』の発刊が企画されました。

現在、第3巻までが上梓され、これらの本は財団法人日本美術院より、北茨城市立図書館に寄贈されております。

第3巻には、五浦時代として、五浦発見と土地購入、五浦の建築なとが詳しく述べられています。しかし、五浦に天心が初めてきたのはいつか、など、不明な 点も多くあります。周山の言う「五月の初め頃」とは、旧暦なのか、新暦なのか。「綴の駅で汽車を下り」五浦へ行ったというのは、本当なのか。など、など……

また、天心が五浦を選んだ理由として、明治維新の端緒となった「大津浜異人上陸」のすぐ隣であることと関係ないのか。天心が戸籍を五浦へ移したのは、天下の魁たる水戸藩の土地を愛したからではないのか。疑問が残ります。

菱田春草は明治40年2月8日に、大作千七百三十四番地を購入しています。明治の土地台帳や新聞などを丹念に調べれば、野口勝一との接点も見つかるかも知れません。
誰か謎を解いてください。

広報 図書館だより・第4号(平成5年3月20日)より

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「東部炭礦技術」東部炭礦技術会 編

司書 安部 憲夫

太平洋戦争の終戦直後、当時の混乱した日本経済を正常な形に戻すには、国策としての石炭産業を、早急に立直す必要がありました。より多くの石炭を能率的に増産するには、最新の情報と高度な技術導入が焦眉の急としてあげられたのです。

昭和21年12月には、炭礦技術者養成のための研修の場として、東京炭礦技術会が結成されました。その後、各炭礦地域に技術者や研究者の集まりが次々と結成され、研究発表や講演会などを通して、炭礦間の情報交換会が行われました。

常磐炭田地帯でも、昭和22年月に東部炭礦技術会が結成され、「採炭」「選炭」「保安」「地質」「防排水」などの分野で炭礦技術の研究が進められまし た。これらの研究報告会が『東部炭礦技術』として昭和23年月から、年4回の割合で発刊されました。発行部数は約1,300部で、執筆者は東京大学をは じめとした各大学の教授、常磐炭田地帯の各炭礦技術責任者など、いずれも専門家ばかりでした。

これら1冊1冊を詳しく調べることによって、常磐炭田地帯の炭礦機械化導入が、世界最高の水準に至った過程をふりかえることができます。

また、郷土を知る資料としても、欠かすことができません。たとえば、第28号に掲載されている「常磐地方に於ける炭田ガス」の調査などは、市内に係わることも書かれており、現在読んでみても、おおいに興味をそそられる内容です。

広報 図書館だより・第5号(平成6年3月20日)より

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「野口勝一日記」(北茨城市史別巻五~八)

司書 安部 憲夫

「野口勝一日記」

平成2年度から刊行されていた『北茨城市史 別巻』の『野口勝一日記』が完結しました。

勝一は、嘉永元年(1848)に生まれ、明治38年(1906)に亡くなっています。「茨城日日新聞」を創立し、社長に就任したほか、第2代の茨城県会 議長を勤め、その後衆議員議員として活躍しています。ほかにも、『維新史料』『風俗画報』など多くの刊行物を発刊し、文化面でも大きな貢献をしています。 幕末維新の志士”吉田松陰”を初めて全国に紹介したのも勝一です。(野口勝一・富岡政信共著『吉田松陰伝』明治24年野史台刊)
勝一の日記を読むことによって多くの有名な人物と出会うことができます。丹念に読んでいけば、今まで分からなかった郷土の歴史も解明されるでしょう。

明治36年6月6日の項には、飛田周山とともに岡倉天心も登場してきます。天心が五浦へきたのは、明治36年の5月の初め頃と言われています。根拠とな る資料は『日本美術院史』斎藤隆三著と『父岡倉天心』岡倉一雄著の2冊といえます。前者の中で周山は「五月の初め頃」と言い、後者の中では「四・五月頃」 となっています。どちらも数十年前の記憶をもとに言っているので疑問は残るのですが『父岡倉天心』の中で「雨を冒しての視察」とあるので、天心が五浦へ来 た日は”雨の日”と考えて良いでしょう。勝一の日記から雨の日を見てみると4月29日と5月1日となります。天心は4月2日まで東京で審査会に出席して いるので、それ以降の雨の日となります。29日は日程からみても無理かと思われますし、この日の日記に「雨冷」とあるので、このような日に草野海岸や五浦 を探勝したわけがありません。そこで、5月1日の「午後小雨」という表現が浮かび上がります。ですから、天心が周山と東京を出発したのは、4月下旬で五浦 に来た日は明治36年の5月1日と断定して良いでしょう。そして、天心を五浦に連れてきた本当の人物も、勝一日記をより詳しく読むことによって解明される と思うのですが……。

広報 図書館だより・第6号(平成7年3月20日)より

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「常磐炭田史」

司書 安部 憲夫

「石炭」は、今では石油におされ、歴史の中に消えようとしていますが、北茨城市の歴史を考える時には、「石炭」を抜きにして考えることはできません。

私たちの住む郷土は、石炭産業の盛衰の中で、どのようにかかわってきたのでしょうか。茨城県と福島県にまたがる常磐炭田地帯の歴史をまとめたのが『常磐 炭田史』です。この本は、昭和30年に東部石炭鉱業会顧問であった清宮一郎によって出版されたものです。

『常磐炭田史』の復刻に寄せての中で、岩間英夫氏は次のように3点を評価して述べています。第一は、常磐炭田が近代的石炭産業として形成、確立する明治 後半から大正初期をまとめた山野・岡田著『常磐炭鉱誌』の後を受けて、昭和20年代までの独占全盛時代を記録にとどめたこと。第二は炭鉱界の中枢にあっ て、直に接した炭鉱関係者の人脈ならびにその経営について、炭鉱内史、経営史として残したこと。第三は、当時にあたって最大限努力した克明な年表と諸表が あること。この3点を特に強調しました。常磐炭田を研究しようとしたときに、まず初めに調べなければならない本の1冊です。現在まで、炭鉱関係の本は多数 出版されてきました。北茨城市でも、『北茨城市史 別巻3石炭資料1』平成2年3月に発刊されました。新しく発刊された資料と、以前に発刊された資料をつ きあわせて、新しい事実を考えてみるのもおもしろいと思います。たとえば、明治15年の『常磐炭田史』の年表をみてみると「堀松之助、川来虎之助ら合資組 織の日本石炭商会(のち多賀商会と改む)を設置し、車置炭鉱を開坑。」とあります。『北茨城市史 別巻3石炭史料1』には、日本石炭商会概況書上とあり、 日本石炭商会は明治15年12月18日開坑同1年2月販売初、とあり、小豆畑村車置一支店とあります。

石炭礦譲渡認可の通達は「車置外壱ヶ所石炭礦、明治6年12月中許可相成居候分」とあり、華川町車置に石炭採掘の許可が明治6年12月に出されたことが わかります。日本石炭商会社名変更届けには、小豆畑村炭山採鉱とあるので、明治15年の正しい記述は「車置炭礦を開坑」ではなく、「小豆畑村炭山を採掘 し、車置に支店を設けた」とすべきでしょう。

『常磐炭田史』の年表には「明治18年に海軍省華川村小豆畑車置に堅坑を開きて試掘す」とあります。当時堅坑というのは、最先端の技術を導入していた九州の炭礦と、ほぼ同じ水準に達していたことを意味しています。海軍省がなぜ、この北茨城に堅坑を開き試掘したのでしょうか。それは、横須賀海軍基地より一 番近い石炭産炭地として、北茨城があったからだと思われます。

『北茨城市史 別巻5 野口勝一日記』の明治16年8月1日をみると、午後、東京の勝一宅に広岡逸人が来て、小豆畑山炭鉱木道が落成し、開通式が行わ れることを話しています。榎本武陽の親戚にあたる、海軍省にいた広岡逸人が、地元有力者を頼ってやってきたのは海軍省が堅坑を開く2年前のことでした。ですから、新しく年表に付け加えるなら、明治1年のころに「広岡逸人を通して日本石炭商会より、海軍省に北茨城市華川町小豆畑の石炭が入る」とすべきだと 思います。

広報 図書館だより・第7号(平成8年3月31日)より

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「定本 野口雨情」(未来社)

司書 安部 憲夫

北茨城出身の童謡作家、野口雨情については、知られているようで知られていない部分がまだたくさんあります。明治15年北中郷村の磯原で生まれ、昭和20年に亡くなるまで、本当はどのくらいの詩、童話、民謡、散文などを作詞し、発表しているのでしょうか。

生前に刊行された二十数冊については、現在はみな絶版になっており、古本屋に行かなければ手にはいりません。
雨情の全体像を知るためには、それら刊行された本の外に、生前に発表した新聞や雑誌の随筆やエッセイ、書簡など、できる限りの雨情の作品を集大成した本が必要となります。

現在刊行されている本の中で、それらについて一番まとまっているのが、『定本 野口雨情』といえるでしょう。第1巻は詩と民謡1 第2巻は詩と民謡2  第3巻は童謡1 第4巻は童謡2 第5巻は地方民謡 第6巻は童話・エッセイ 第巻は童話・民謡論1 第8巻は童謡・民謡論2 補巻は補遺・書簡 と なっています。第一巻は、昭和60年に出版され、最後の補巻が出版されたのが昨年の平成8年です。刊行もとは、東京の「未来社」で「解題」は、槍田良枝 氏、野口存彌(のぶや)氏 東道人氏が書いています。

補巻の「解説」を書いた野口存彌氏は、「生涯にわたって現実には本書収録の何倍、さらには何十倍もの書簡を書いていたはずであるが戦災等により亡失して しまったものも数多いことが想像される。」と埋もれている書簡がかなりの数になっていることを認めています。

「雨情」を調べようとするならば、書簡に限らず、「俳句」「小説」「小作品」などなどに関して、定本に掲載されていない未発表の作品が相当あることも、忘れてはいけません。
野口雨情のふるさとに生活している私たちは、この『定本 野口雨情』を踏台にして、さらなる「雨情」の全体像把握につとめていかなければならないでしょう。

広報 図書館だより・第8号(平成9年3月20日)より

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「岡倉天心全集」(平凡社)

司書 安部 憲夫

平成9年11月8日に、岡倉天心ゆかりの地、北茨城市大津町五浦に、県天心記念五浦美術館が、開館しました。県立美術館としては、本館の県近代美術館、分 館のつくば美術館に続く3館目で、岡倉天心による日本美術院創立百年を記念し、総事業費約億円をかけ、完成したものです。

鉄筋コンクリート平屋建ての延べ床面積約5,800平方メートルに、天心記念室や、五浦の作家たちの業績を分かりやすく紹介する展示室、図書館、講堂などの施設を備えています。
開館日から12月14日まで、開館記念展として「天心と五浦の作家たち」が企画され、期間中に10万人を越える入館者を記録しました。

岡倉天心は、文久2年(1862)12月26日に横浜本町に生まれ、大正2年(1913)9月2日に心臓発作を起こし、越後赤倉山荘で52歳で死去しています。

明治時代の美術指導者、思想家として知られ、波乱に富んだ生涯をおくった天心は、明治36年(1903)5月1日に、飛田周山、鳥居塚敏之輔の案内のもとに、北茨城市大津町五浦を訪れました。

この年の8月1日には五浦の土地を購入し、明治44年(1911)4月4日には、「東京市谷中区谷中初音町四丁目弐拾番地」より、「茨城県多賀郡大津町七百二拾七番地」に籍を移しています。

岡倉天心(覚三)の亡くなった場所は、越後赤倉山荘なのですが、実は、戸籍の上では、大津町町民として亡くなっているのです。

数多くの岡倉天心に関する本が出版されていますが、その中でも「平凡社岡倉天心全集編集部」によって刊行された、『岡倉天心全集』全9巻が、岡倉天心を調べる上では、一番適当かと思われます。

『岡倉天心全集』の内容は、第1巻は「東洋の理想・茶の本他」、第2巻は「評論・講演」、第3巻は「評論・講演・講話・意見書」、第4巻は「美術史」、 第5巻は「日記・旅行日誌」、第6巻は「書簡1」、第巻は「書簡2・漢詩・新体詩・歌謡・俳句・英詩」、第8巻は「ノート・雑纂、翻訳」となっていま す。最後に第9巻として、「別巻」があります。

広報 図書館だより・第9号(平成10年3月20日)より

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「松岡地理誌」(北茨城市史別巻二)

司書 安部 憲夫

「松岡地理誌」

私たちが現在住んでいる北茨城市の江戸時代の村々の様子は、どのような状態だったのでしょうか?

ちょっと古い時代を調べる最も信頼のおける調べかたの1つとしては、当時書かれた文献から研究していく方法があります。その文献が、本当に信頼のおけるかが問題になるのですが、ここでは『松岡地理誌』を考えてみましょう。
『藩史大事典』(雄山閣)の松岡藩藩史略年表の中に、「家臣寺門義周に命じ『松岡藩地理誌』を編させる」とあります。年代は、文化年(1810)です。

江戸幕府の命令によって、領内の地誌の編成を求められたのに対して、当時の郡奉行の添役として、寺門義周が松岡領の地誌をまとめ、水戸藩に提出したものです。
『松岡地理誌』は水戸藩によってまとめられた公文書と考えられるので、最も信頼のおける資料と言えるでしょう。

水戸藩ではこれを多少修正し、『水府志料』(水戸領地理志)の中に取り入れています。
『松岡地理誌』の内容は、中山家の知行所2か村新田についての状況を記したものです。北茨城市では、小野矢指村、粟野村、日棚村、松井村、足洗村、 福島村、石岡村、上桜井村、下桜井村、臼庭村、磯原村、大津村、豊田村、木皿村、上相田村、内野村、大塚村が含まれますが、その外の村々は残念ながら記載 されていません。

北茨城市史編さん委員会編として、『北茨城市史 別巻2』が昭和59年に刊行され、その中に『松岡地理誌』の全文が掲載されています。解説には、「記載 事項は、(一)村々の地形、東西・南北の大きさ、周囲接界の村、つまり相対的位置、(二)河川の水系、滝、橋、渡し場の存在、(三)その他の特産物、 (四)住民の所有する古文書、古器物の類、(五)その土地の城、館跡とその由来、(六)神社や寺院の由来、(七)古墳その他、(八)伝説、口碑などが主な ものであるが、現在、当時の村々のようすを知る上でもっとも便利な史料である。」と紹介されています。

広報 図書館だより・第10号(平成11年3月20日)より

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「常陸 多賀郡史」

司書 安部 憲夫

「常陸 多賀郡史」の画像

『常陸 多賀郡史』は、大正12年(1913)3月31日に発刊されました。今から8年前のことです。旧多賀郡は5町15か村からなり、現在の北茨城市の全域、それに日立市、高萩市、十王町が含まれていました。

編纂員、安達鑛太郎の「編纂に就いて」を概略すると、大正10年(1911)6月、多賀郡より郡史編纂員を依嘱され、その器(うつわ)でないと思ったが、栗田勤先生が顧問となるにあたり、その嘱を受けることにした。私は、歴史は国人の鏡(かがみ)にして、国家社会秩序的発展の根底たるべきものと思って いる。近時思想が悪化しつつあるのは、経済問題より起きたものではあるが、歴史尊重心荒廃して、精神生活なるものの欠乏したのにも一因があると考えてい る。と書かれています。

この文章を記した安達鑛太郎は、松原、松岡、平潟の尋常小学校長を歴任した教育者で、父親勝功は拡充師範学校第1回卒の野口勝一と同窓生です。顧問の栗田先生は、『大日本史』を完成させた東京帝国大学の歴史学の教授です。

明治の後半から大正にかけて、全国で郷土史編纂の気運が各地に起こり、全国至るところで郷土史編纂が実行に移されました。『常陸 多賀郡史』もそのよう な中で完成されたものです。目次を見ると、 第1章 総説 第2章 政治沿革 第3章 緒行政区画 第4章 兵事 第5章 神社 第6章 宗教 第章  教育 第8章 衛生 第9章 産業 第10章 感化救済 第11章 旌表 第12章 各勝古跡、天然記念物、となっています。
地域の歴史を探求しようとする時、始めに考えなければならないのは、先人の残した歴史への志です。

時代的制限や問題点はあるとしても、『常陸 多賀郡史』のように郷土に対する深い愛情が読み取れる歴史書こそ本物といえるでしょう。

広報 図書館だより・第11号(平成12年3月20日)より

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「新編常陸国誌」

司書 安部 憲夫

「新編常陸国誌」

『新編常陸国誌』は徳川光圀(みつくに)が家臣小宅生順(おやけせいじゅん)に命じて編さんさせた『古今類聚(ここんるいじゅう)常陸国誌』を補なう形で編集した常陸国の総合史誌です。

著者は中山信名(のぶな)で、現在、東京の静嘉堂(せいかどう)文庫に、自筆文61巻が所蔵されています。

中山信名は、現在の日立市に生まれ、江戸に出て塙保己一(はなわほきいち)に師事し『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』編さんの校訂に力を尽くし、天保 年(1836)に亡くなっています。その後明治時代になってから、水戸出身の史学者栗田寛(ひろし)が、土浦の国学者色川三中(いろかわみなか)の訂正 本を転写し、これに大幅な増補、修正を加えて完成させたのが『新編常陸国誌』です。

現在この本は、宮崎報恩会から昭和44年(1969)に復刊本として出版され、市の図書館でも所蔵しています。
『新編常陸国誌』で、たとえば天妃山について調べてみようと思った時は、所在地の「多珂郡」の「磯原」の項を調べます。
そこには、「磯原 伊曾波良 東ハ大海ニ臨ミ、南ハ下櫻井村、西ハ臼庭、上薄葉、…」と書かれてあり、当時の磯原村の形状、地形、字名が記され、続いて神社仏閣が紹介されています。その中に天妃山權現があり
「古ハ薬師如来ヲ安ズ、元禄三年庚午、西山公命ジテ之ヲ村中松林寺ニ移シ、明ノ沙門心越ガ携ヘ来ル天妃神ヲ以テ之ニ代フ、常ニ燈ヲ照シ、漁船ヲシテ、東 西ヲ知ラシム………毎年正月二十三日、七月二十六日、九月廿三日ヲ以テ、之ヲ祭ル、」と書かれてあります。

天妃神の歴史、地形、当時の祭日などが詳細に記されています。
ふるさとの歴史を調べる為の重要な手がかりとなるばかりでなく、このような環境の中で、郷土出身の野口雨情も育っているのですから、雨情文学解明の為にも貴重な書物といえます。

広報 図書館だより・第12号(平成13年3月20日)より

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「飛田周山展」

司書 安部 憲夫

「飛田周山展」の画像

飛田周山は、明治10年(18)2月26日、北中郷村(磯原町)の大塚に生まれました。本名は正雄といい、父正は村会議員、雨情の父量平が村長の時に助役を務めています。

明治26年(1893)に上京し、久保田米遷に師事、又京都画家の竹内栖鳳の門にも入りました。明治33年(1900)4月には東京に戻り、日本美術院 研究所の研究会に入ります。この研究会は、明治32年10月から明治36年の3月まで続いており、東京美術学校の大学院のような機能をもっていました。な お、この研究会は、大きく分けると第1期研究会、第2期研究会、互評会になります。周山はその第2期研究会の90名の中の1人に入っています。研究生になるには、美術員会員2名以上の紹介と審査員の承諾が必要でした。第2期研究会は、明治33年12月から明治36年7月まで毎月第3土曜日に開催されています。会員には、横山大観、菱田春草、木村武山、下村観山などの五浦の作家たちもおり、その中でも周山は絵画においても優秀で、入賞作品を何度も提出しています。

この時点で、周山はすでに五浦の作家たちと顔見知りで、岡倉天心の教えを直接受けていたことになります。明治36年5月1日に岡倉天心が飛田周山と鳥居塚敏之輔に案内されて、茨城の五浦へやってくるきっかけがすでにできていたことになります。

その後周山は、文・帝展を中心に活躍を続けます。明治39年(1906)から昭和16年(1941)まで文部省の嘱託として、国定教科書の挿絵制作に従事します。

大正12年(1923)に始まる茨城美術展においても、横山大観、木村武山、小川芋銭等と共に顧問として加わり、毎回作品の審査にあたるなど、県美術の発展に尽しました。

代表作には、第9回文展で褒状を得た「星合いのそら」、第11回文展で特選を得た「幽居の秋」、 文展招待展出品の「暁山雲」などがあります。『飛田周山展 敬神の画家-周山の世界』は、昭和59年2月に茨城県立美術博物館において開催された「飛田周 山展」の出品作品の図録です。市の図書館でも、郷土資料として所蔵しています。

広報 図書館だより・第13号(平成14年3月20日)より